石仏ディグお供えの旅〜立川市編〜


暑い日も寒い日も台風の日もだんまり、どっしり、そして密やかにまちを見守り続ける存在、石仏たちに愛を注ぐ地味な連載「石仏ディグ」第3弾。

今回は、わがまち「立川市」の石仏を探しに行く。
正直なところ、立川市に残る石仏についてはほとんど期待していなかった。民間信仰が主となる石仏は、庶民が集う場所や人々が行き交う場所に多く残りがちだ。戦後「基地のまち」と呼ばれていたまちの歴史的なイメージで、元々あった石仏も撤去されてしまっているだろうと思いこんでいた。

それでも、日々立川で暮らす中で、ぽつりぽつりと石仏たちに出会う度に、そこはかとなく嬉しい気持ちがこみ上げてくる。数は少ないけれど、個性的な表情にぐっとひかれる石仏探しの旅へ出る。

今日のお供え物購入店


今回もまずはお供え物を購入する。創業61年の歴史があり、地元で愛され続ける老舗和菓子店「立川伊勢屋」だ。一つひとつ丁寧につくる誠実さはもちろん評判だが、立川市のキャラクター「くるりん」やアニメキャラクターとのコラボ商品などで、お客さんを飽きさせない遊び心も長く続く秘訣なのだろう。

奥多摩街道の石仏たち


奥多摩街道は、立川市から青梅市にいたる都道29号線の通称だ(ちなみに、名前に奥多摩とついていながら奥多摩町には入っていない)。「街道」と名のつく道路には少なからず石仏はあるはず、と進み始めるとさっそくトタン屋根が見えてきた。


ブロック塀が祠を囲うように凹ませてあるのに愛を感じる。頭からすっぽり毛糸の帽子を被っているため顔が見えないが、お地蔵様だろう。右は先祖供養塔だ。


こちらには「くるりん」の焼印がかわいい「たちどら」をお供えする。台があるため、このシリーズ中、かなり上位のお供えしやすさ。


すこし西へ進むとまた祠が見えてくる。先ほどはしゃがまないと拝めないほどの高さだったが、今度は背が高い。祠の中に3体と外側には新しめのお地蔵様と灯籠が置かれている。


一番左は庚申塔だ。風化していることもあって、若干ズングリしているのもまた愛らしい。


立川の名産「うど」を使ったパイをお供えする。すこしハイカラだったかもしれない…。


旧道の方の奥多摩街道は西立川のあたりで立川崖線のキワを通ることになるため、景色がよく、夏場は生い茂った木々が影をつくり気持ちがいい。立川市歴史民俗資料館へと下る道では立川崖線の急峻な坂を体感できる。


このあたり、秋は紅葉がとても綺麗で、会社に行く前に意味もなく立ち寄って紅葉狩りをしたりしている。


そんな紅葉狩りの最中に見つけたのが、この馬頭観音の文字塔だ。夏場は草に覆われているため、注意していないと見落としがちな場所に立っている。

石仏の宝庫・流泉寺へ

神社や寺では石仏と出会える可能性が高い。
昭和記念公園を横目に見ながら北上し、五日市街道沿いに建つ「天龍山流泉寺」へ立ち寄ってみた。


流泉寺は、砂川新田開発に携わった人々を供養するための菩提寺として、1650年に開創された長い歴史を持つ寺だ。広い境内は大木についた葉が風で擦れ合う音が聞こえるくらいで、あとは静寂に包まれていて暑さを忘れる心地よさがある。


山門をくぐると、すぐに「水子地蔵尊」が立っている。

「水子」とは生まれて間もない(1年以内)に亡くなった赤子や胎児などを指す。水子地蔵はそうした子どもたちの供養のために建てられる石仏だ。元来、お地蔵様は子どもの守護としての役割を担ってきたことから、水子地蔵としても民間に信仰されるようになったようだ。通常は錫杖(しゃくじょう)とよばれる杖のようなものを持っているのが特徴だが、水子地蔵の場合は赤子を抱いている姿が多く、女性的な容姿をしている。


子どもたちも喜ぶように、くるりんのイラストがかわらしい「うどまんじゅう」をお供えする。


水子地蔵のお隣には六地蔵も並んでいる。

六地蔵は、仏教の思想で生命が輪廻するとされる6つの世界(天道、人道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)である六道をそれぞれが救うとされている。見た目は同じに見えるが、よく見ると実は持っているものが違う。

よく見かける帽子や前掛けとは異なり、スカーフのようなものを巻いているし、斬新かつスタイリッシュな格好になっている。六地蔵をモチーフにした地下アイドルとかいるのではないだろうか。


さらに境内の奥に進むと墓地の入り口に、石仏好きならワクワクが止まらない「羅漢ゾーン」が現れる。

仏像鑑賞の折に、知っていると面白くなる情報として、仏像のランクがある。
ものすごく噛み砕いて説明すると以下のような感じだ。

↑画像クリックで拡大

羅漢は、一番下のランクではあるが、悟りの境地に近づいて人々の尊敬を集めた高僧たちのこと。それでも上の如来や菩薩からはかけ離れた存在なのかもしれない。人間の中ですごい人といった感じ。

そのため、煩悩が見え隠れした表情をしていて、石仏に興味がなくても楽しめるのが羅漢像の特徴だ。


本当に修行しているのか?と思ってしまうような姿勢をとっているもの、煩悩払拭とは程遠い謎のポーズをとるもの、子どもをかわいがっているもの、メガネをかけているものまでいる。

クスクスと笑いながら一つひとつじっくり眺めるのが楽しい。
人間的な滑稽さに溢れ、親しみが湧く。ここよりも数が多い羅漢像が見られる場所では、その中にかならず自分と似た羅漢がいるらしい。泣いたり怒ったり、仕事に疲れてだらけていたり、子どもをかわいがったり、誰しも一度はここにいる羅漢たちと同じ表情をしていることがあるのではないだろうか。

庚申塔や道祖神などの民間信仰は、乱暴な言い方をすると「民衆の勝手な解釈」が生み出した信仰心だと思っている。その分、人間くささがにじみ出ていて妙に惹かれるのだ。そういう意味で、羅漢像は人間らしさを見たまま表現しているのでとても好きだ。

高僧といえど、人間。立派な人でも怒るし、泣くし、ダラダラする。それでいいんだ、と思って安心できる存在に癒やされるのが石仏の優しさの一つなのだ。

写真・文/一楽まどか

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